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の市町村でも持っていると思われるが、このまま何もせずに腕をこまねいている市町村は、21世紀には時の流れによって自然消滅してしまう恐れさえあるのは確かである。
機械化されて、手を土で汚すことのなくなった農業であると言われても、機械を動かすのは人間である。過疎の町村の小学校では、5年生が男女合せて15名いる学校では、1年生は3名しかいないのが実情である。
こうした少子化は21世紀には農村で田を耕す人がいなくなる兆候を明確に示唆している。恐らくアジアからの労働者が大量に流れ込むことが予想される。
こうなった時代には、町村にある芸術や文化は評価が全く変っていまうのである。
そうした状況に陥る以前に、日本人の祖先が代々エネルギーを投入して育て上げてきた農村文化を取り戻し、その結果としての楽しい村づくり町づくりを実施しておかなくてはならない。過疎であればあるほど、緊急の問題なのである。
すべてに個性が要求される時代である。村が村であればあるほど人々が集ってくる。一過性の積りであったイベントが反響を呼び、住民が再度の上演を期待したところから、地域名物の恒例のイベントとなって定着し、多くの観光客を集めるに至った例もある。
遺跡の発掘や出土品による地域おこしは、古代史ブームに乗って、多くの参観者を集めることが可能になる場合がある。
その一方、マスコミが発達して情報が過度に流れると、受け手がより新しくより奇跡に富んだ発掘物を求める傾向を生じてしまい、事実このような状況が現れている。
こうした際にもっとも必要なのは、古代の人々と同じ風土の上に住んでいるはずの村や町の人達が、自分達の生活の観点に立って、遺跡や出土品を見つめてみることである。
それなのに価値の裏づけを急ぐために、直ちに研究者や専門家の手に委ねられてしまい、ふるさとの心が全く圏外に置き去られる状態になるのは、極めて残念な現象である。
土器があれば、これを主として使ったのは女性であるから、地域の女性が集って、自分ならばこの土地でこれを何に使うかなどの討論をして、まず自分のものにする考えを先にしなくてはならないし、自治体も識者による権威づけを後からの参考として利用するという段階にすれば、住民の心が集められ、そこからの地域づくりも発想可能になるのである。
実学に乏しい日本の教育は、ややもすると桐の箱に納めて、床の間に芸術品を飾ってしまう傾向を助長するが、有難がって眺める時代は半世紀前に終り、見て触れて体験する時代に入っているのである。
町並み保存にしても1日家や民家の保存にしても、かんたんなのは、もう一度行ってみたいという意欲をかき立たせる工夫があり、そのためには、まず住民が生活者としての視点に立って見つめることである。
西欧のこうした保存物が、特別に枠づけされた中ではなくて、現在の住民の生活そのも
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